日鉄のUSスチール買収:米製造業の復興に波及効果、日米関税交渉でアピール材料に
日本製鉄は1年半もの交渉を経てUSスチールの買収に成功。米政府にさまざまな条件を付けられながらも「最後の成長市場」の米国に足場を築いた意義は大きい。同時に現在の日米関税交渉で、買収によるUSスチール再生が他の産業の復興にもつながる点をアピールすべきだと、経済産業省出身の細川昌彦氏(明星大学教授)は主張する。
細川 昌彦 HOSOKAWA Masahiko
明星大学経営学部教授、国際経済交流財団・特別参与。1955年生れ、東京大学法卒、ハーバード・ビジネス・スクールAMP修了。 77年通産省(現経済産業省)に入省し、中部経済産業局長、スタンフォード大学客員研究員、ジェトロNYセンター所長などを歴任。2020年9月より現職。グローバル企業の顧問、政府のセキュリティ・クリアランス有識者会議メンバー。産経新聞「正論」欄への連載、日経ビジネス電子版への連載、日経新聞「経済教室」への寄稿のほか、近著に『トランプ2.0 米中新冷戦』。
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リスクはあるが、他の選択肢なし
米政府や全米鉄鋼労組(USW)の抵抗で難航していた日本製鉄によるUSスチール買収は、バイデン政権からトランプ政権に変われば、「いちるの望みがある」と以前から思っていたので、不思議ではない。トランプ大統領はディール次第で「成果」を誇示さえできれば、手のひらを返す人物だからだ。
この買収は、米政府が拒否権のある「黄金株」(※1)を取得するという意味で100%の「完全子会社」ではない。橋本英二会長は「経営の自由度には問題ない」と強調しているが、詳細な合意内容次第では株価にも影響しかねないので、そう説明しないと株主総会を乗り切れない。経営者としては当然の発言だ。
USスチールの買収手続き完了を受け、記者会見する日本製鉄の橋本英二会長(時事)
米政府が黄金株を通じて、どう経営に介入してくる可能性があるかは、契約の規定をきっちり読まないとわからない。細かい内容は外部からは分からないのだから、介入リスクを安易に論じることはできない。
確かに設備投資は約束した数字を達成しないといけないとか、工場の縮減・閉鎖は許されないとか、その限りにおいて経営の自由度は縛られている。ラトニック商務長官がSNSで発信しているように、ざっくりとした内容は分かっているが、もちろんそれだけではないだろう。
日鉄は株式取得と設備投資を合わせて約3.5兆円もの資金を投入するので、事業を通じた資金回収は大変だと思うが、一流の経営者なのだから、投資収益性は十分に計算しているはずだ。米国市場の成長性やUSスチールの顧客企業、競合他社を細かく分析して、これだけ投資すれば自動車や造船業などでこれだけの需要と競争力があるとか、細かく分析しているだろう。
買収のポイント
- 日鉄はUSスチールを完全子会社化
- 買収金額は約2兆円(141億ドル)
- 米政府に拒否権のある黄金株付与
- 約1.5兆円(110億ドル)の設備投資実施
- 米政府と国家安全保障協定を結ぶ
各種報道を基に編集部が作成
日鉄が苦労しながらもUSスチールの買収にこだわったのは、それしか成長の可能性はないからだ。国内市場は頭打ちだし、中国市場では完全に排除されており、残る成長市場は米国しかない。しかも米国は高関税(50%)で安価な外国製品から守られており、こんなに企業の投資に魅力的な市場はない。経営としては合理的な判断だ。
買収後、期待通りにUSスチールが順調に成長していくかどうかは何年か経たないと分からない。だが、日鉄には成長戦略として、米社買収以外に選択肢はなかった。仮に期待通りにUSスチールが成長しなかったとしても、では買収しなかった場合に日鉄がどういう状況になっていたかを比較しないといけない。経営にはリスクはつきものだ。リスクを取るか取らないか、どこまでのリスクだったら許容するか、これは経営の根幹だ。
良質で安い鋼板を自給できなかった米国
日鉄によるUSスチール買収は、米国の製造業復興にもつながる。鉄鋼業は基幹産業であり、ここが起点になってユーザーの自動車産業や造船業などの復活につながる。米国の自動車、造船産業が凋落(ちょうらく)した一因は米鉄鋼業界の弱体化にある。
自動車用の高級鋼板や造船用の厚板など、良質の鉄鋼が安価に手に入らないことが米主要産業の根幹に関わるボトルネックだった。良質の鋼板が手に入れば、自動車産業だってもっと工場を作って投資する。いくらトランプ大統領が自動車や造船の復活を声高に言っても、鉄鋼が国内で調達できなければ、絵に描いた餅だ。
日米関税交渉においても、日鉄によるUSスチール買収をトータルの大きな絵の中で位置付け、日本が米製造業の復活に貢献するというストーリーを示したり、説明したりするのはとても大事だ。これが政策論の本質的な筋だ。確かに日鉄にしてみたら買収交渉をしている最中に、日米政府間の関税交渉と関連付けされたりするのは、迷惑だったろうし、現に経済産業省もそれを避けていたようだ。
今は買収が成立したのだから、今後は堂々と言える。ラトニック氏は強硬派であるのに加え、米政権スタッフがどんどん去って歯抜け状態であり、日本政府が米国に考えを浸透させていくのは大変だが、理解してもらうように仕向けないといけない。
もっとも米側に日鉄による鉄鋼業の再生が米製造業の復興に寄与するという大きな絵を示したからと言って、援軍にはなっても関税交渉そのものが直ちにうまくいくかというと、それは甘い。短期的に赤沢亮正・経済再生担当相が取り組む関税交渉に、急激な変化が起きるわけではなく、そこは別に考えないといけない。
一時は大枠合意の可能性も
日米関税交渉の焦点である自動車を巡る米側の担当責任者はラトニック氏であり、ベッセント財務長官ではない。6月上旬の第5回交渉でも、赤沢氏は初日にラトニック氏と2時間会談し、翌日にベッセント氏と45分間、その後またラトニック氏と2時間も話している。自動車関税の件はしっかり話し合っていると見るべきだ。
ラトニック氏もベッセント氏もトランプ大統領の方しか見ておらず、どう反応するかと常に考えながらやっている。6月半ばにカナダでの主要7カ国首脳会議(G7サミット)時の日米首脳会談に向けて、赤沢氏は一時、大枠での合意に期待を抱いたこともあったのだろう。その発言からはラトニック氏の反応に手ごたえがあったようだ。
ところが、トランプ氏の反応はもう一つだったのかもしれない。ラトニック氏はG7サミットに随行しなかった。交渉事は一筋縄では行かない。
今後さらに閣僚レベルでの交渉を加速させるという。自動車の対米投資を通じて米国の生産と雇用に貢献していることをアピールし、主戦場の自動車関税の引き下げに反映させる工夫をすべきだろう。製造業の復権を掲げる米国にとって、それが本質的根幹だからだ。
(聞き手:ニッポンドットコム編集部・持田譲二)
バナー写真:日本製鉄の本社ビル(AFP時事)
(※1) ^ 黄金株とは、わずか1株で取締役の選任・解任など株主総会での重要事項決議に拒否権を発動できる特殊な株。政府が国益上、重要とみなした企業に対して、黄金株を取得してにらみを利かせる例はあるが、米国自身は「株主軽視」として、黄金株に否定的だった。
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